玉神輿

玉神輿講 副講元 小林克次 玉神輿との出逢い

「玉神輿との最初の出会いですが、中学一年くらいから(大阪市中央卸売市場に)丁稚奉公に出ていて、(働いていた)店の三軒隣に担ぎ手の方がいて、その人に連れて行かれて、参加することになったんですわ。」と、玉神輿との出逢いを語ってくれるのは、玉神輿講の副講元 小林克次さん。天神祭に欠かせない講のひとつ、玉神輿を守っているひとりだ。

小林さんが中学校一年生のころからということは、今からなんと48年前...1959年。その頃から、玉神輿には特別な思い入れがあるそうだ。

「その頃は今とは違って担ぎ手の人数が決まってなく、出たい人はみんな出れたんですね。(大阪市中央卸売市場で)どの仕事をしているかというのはハチマキの色で分かるようになっていて、例えば漬物屋はこげ茶色、乾物屋は黄色、水産は水色、生果は青と分かれていた。担ぎ手はだいたい300人から、多かったら370、380人くらいいました」

当時の様子に目を細めながら、話しを続ける小林さん。
「我々の時代の丁稚奉公は非常にね、きつかったんですよ。昔(大阪市中央卸売市場は)8がつく日しか休みがなく、学校通いながら働いていたので、両方の休みが合う日がなくて。でも当時は働きに行かないと食べていけない、という子がほとんどでした。他に遊びもなく、一年に一回のコレが楽しみだったんですわ。まあ、ストレス発散の一つですね。みんな強くて、肩あてなんかせずに神輿担いでて。すごく力がありました。昔の人は強いなー、と思いますね。なんせ神輿を放り上げとったからね(笑)。そんな人ばっかりで面白かった!最近の若い人は色々遊ぶこともあって、神輿担ぐことにあまり興味がないんかもしれんが、中央(卸売市場)に働いてるんやったら一度は出てみ、と思う。話のタネにね」

 厳しかった時代背景と、その中だからこそ楽しみだった天神祭、光っていた玉神輿の想い出話しは尽きることがない。

血が騒ぐような感覚

「日本人が持っている血というか、DNAというか。子供の頃に祭りに連れて行ってもらった流れが心にずっと残っているもんやないかな。その想いが神輿にね。やっぱり、お祭りゆーたら、わーっと血が騒ぐもんです。ブラジルのサンバと一緒やと思うね。(大阪市中央卸売市場内の)他のところで働く人たちとの交流にもなっていて、大事な役割を担っているんですよ。実は」 娯楽のあまり無かった時代に、天神祭や玉神輿になると雄々しい日本人の血が騒ぐと語る小林さん。いまでも日本人の中にはそう言う血が流れてるんや。と熱く語って頂きました。

玉神輿の魅力

玉神輿の魅力と言えば、どんなところですか?と言う質問に、「やっぽり神輿の大きさ。当時の船大工が作ったもんやから、重さも大きさも半端やない。

そして道具の素晴らしさ、歴史的価値。例えば、昭和三十年代に、大修理をやったんやけど、担ぎ棒一つにしても、立派な檜で作られていて全く節がない部分を使っているいるんですよ。それはもぉ大変やった。
今やったらたぶん同じ事は無理とちゃうか。私は『祭りはみんなが楽しむもんや』と思っていて、厳粛な神事を中心に置いて、というのは基本ですが、見る人も参加する人もみんなが一緒に楽しめる、そういう祭りにしていけば天神祭は永久に続いていくと思うんですよね」

これからの玉神輿講

「いろんな問題があるのは確かなんですわ。
例えば、玉神輿を運ぶぽんぽん船や泥船が少なくなっていること、夜の花火や出店に人は集まるけど、昼間にやってる陸渡御の神輿をどうやってアピールするか。
ほかにも、担ぎ手の仕事柄、みんな朝早いので次の日が辛く、参加者も限られているという現状。まあ、担ぎ手を市場の関係者だけやなく、外部に参加者を募ることは簡単だと思うんですが、やっぱり市場関係者で受け継いでいくことが大事かな、とも考えるわけですよ。
続けていくことは、それなりに苦労もしますが、みんなの期待や想いを大切に、これからも天神祭の大切な陸渡御、船渡御の文化を玉神輿を通じて守っていきたいと思っています。」