天暦3年(949年) | 大阪天満宮鎮座 |
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天暦5年(951年) | 「鉾流神事」(天神祭)始まる |
宝徳1年(1499年) | 7月7日公家中原康富 天神祭礼見物(康富記) |
天正15年(1587年) | 6月25日 公家山科言経 祭礼見物(言経卿記) |
天正18年(1590年) | 6月25日 公家山科言経 祭礼見物(言経卿記) |
慶長20(元和元)年 (1615年) |
大坂夏の陣で 大阪天満宮被災 御神霊を奉じ「社中家内老若男女共」吹田へ避難 |
寛永21年(1644年) | 大阪天満宮 天満へ還座 |
寛永末期〜慶安はじめ (1640年代後半) |
京町堀川流末の地(後に雑喉場として発展する)に行宮(御旅所)を設定 天神祭の船渡御は毎年行宮に向かうことになり。社頭の浜(川岸)から神鉾を流し、流れ着いた所をその年の行宮の地と定める「鉾流神事」の意味がうすれたため、以後「鉾流神事」は中断した その復活は昭和五年のことである |
慶安2年(1649年) | 6月17日「六月天神祭礼之義氏地へ御触」(「摂陽奇観」)で天神祭に惣町中より出るねり物(地車)が順番を争うので、一番地下町・二番宮之前町・三番御旅所之町と定め、他は6月21日に代表者が集り順番を決めることとなる のちに三番以降はくじ引きで決められた。 |
寛文末〜延宝3年 (1641頃〜75年) |
御旅所は雑喉場から戎島に移転、その後明治初年までその場所は変わらなかった |
延宝3年(1675年) | 一無軒道治 大阪天満宮の由緒と御旅所への船渡御について記述(「芦分船」) |
延宝8年(1680年) | 一無軒道治 神輿二社難波橋より乗船し戎島の御旅所へ遷幸するさまを描写(「難波艦」) |
貞享3年(1686年) | 僧侶独庵玄光 天神祭に漢詩を詠じる(「独庵藁」) |
享保9年(1724年) | 3月21日 妙知焼で 大阪天満宮被災 |
天保8年(1837年) | 大塩平八郎の乱(大塩焼)により 大阪天満宮消失 |
天保11年(1840年) | 現存の玉神輿、鳳神輿ができる(江之子島東之町奉納) |
弘化2年(1845年) | 正遷宮 現在の社殿が再建 |
慶応1年(1865年) | 6月大坂諸社神事御遠慮 天神祭陸渡御は中止ながら新撰組から「神輿渡御せよとの意見書あり」 |
明治4年(1871年) | 天神祭陸渡御・船渡御復活 |
明治9年(1876年) | 御鳳輦できる |
明治11年(1878年) | 本社営繕中につき渡御なし(本年より天神祭は7月24日・25日になる) |
明治14年(1881年) | 船渡御復活 |
明治18年(1885年) | 淀川洪水のため祭礼一か月延期 渡御なし |
明治35年(1902年) | 3月25日〜4月8日御神退一千年祭 |
明治45年(大正一) (1912年) |
「聖上陛下御平穏祈祷祭」渡御なし |
昭和2年(1927年) | 諒闇につき、渡御なし 社司以下17台の自動車で御旅所にいき祭典 |
昭和5年(1930年) | 食満南化の提唱により「鉾流神事」復活 7月24日朝神事斎行 |
昭和13年(1938年) | 本年から23年まで船渡御中止 太鼓も神輿もない寂しい陸渡御 |
昭和20年(1945年) | 「7月25日敵機終日頻襲の為 社頭閑散隔世の感無量なり」(日誌) |
昭和24年(1949年) | 船渡御復活 中央市場内に御旅所 地盤沈下と不慣れで支障続発 |
昭和28年(1953年) | 船渡御復活 大川上流・桜宮水上舞殿へ神幸 |
昭和36年(1961年) | 船渡御中止 |
昭和49年(1974年) | 船渡御中止 前年のオイルショックとそれに続く不況のため |
昭和53年(1978年) | 大篝船41年ぶりに復活 |
平成1年(1989年) | 7月24日地車曳行・宮入 ほぼ100年ぶりに復活 |
平成3年(1991年) | 3月催太鼓の「からうす」大阪府の重要無形文化財に |
平成6年(1994年) | 5月6日・7日 オーストラリアのブリスベン市で天神祭斎行 出典 【天満人の会】『天神祭』(別冊天満人)/【天満宮社務所教学部(編)】『講論に描かれたる天神祭号(大坂天満宮社報145号)』/【米山俊直 中央公論社】『天神祭ー大阪の祭礼ー』/【上井久義 玉神輿奉賛会】『天神祭講社の研究調査』中間報告/【近江晴子】『大阪の歴史』(第54号) |