食卓 - 大阪市中央卸売市場 -

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大阪市中央卸売市場本場 沿革

野菜、果物、水産物などの市場が形成されたのは、豊臣秀吉が大坂城を築城した頃からであり、以来、江戸時代を経て発展し、昭和の初期まで盛況を呈した大阪の名高い市場として、天満、ざこば、靱、木津、難波などがありました。

第一次大戦が終わった大正7年頃は、経済情勢が不安定であったため、物価への影響を危惧した大阪市は、大正7年4月に公設小売市場を設置し、日用品の廉売と物価の安定を図りました。同年7月に起きた「米騒動」は、国民の食生活に影響が多大であったことから、国は、その対策を検討することになり、生鮮食料品の取引の正常化、適正な価格形成を目的として、大正12年3月、中央卸売市場法を制定しました。

これを受け、市民の食生活安定のため、中央卸売市場の開設が必要であると判断した大阪市は、水陸運ともに至便な福島区野田を最適地として決定、全国に先がけて大正14年3月に国の認可を得て着工し、当時東洋一を誇る堂々たる総合市場として、昭和6年11月11日に現在の中央卸売市場本場が敷地面積約126,000平方メートルで開場しました。この開場と同時に従来から繁栄していた私設卸売市場については、ほとんどが収容され、開場後1年間(昭和7年)の取扱量は39万トンに達しました。

また、第二次大戦終戦直後の統制中は、生鮮食料品の集荷配給機関として本来の市場機能を一時中断しましたが、統制の解除とともに、昭和25年5月から仲買制度の復活など再び本来の市場の姿に戻り、取扱量も45万トンまで回復しました。

昭和39年には、本場の取扱量も開場当時の2倍強の82万トンを超え、その後も毎年1割近くの増加を示し、昭和45年に120万トンに達したことから、取扱量の増加や自動車輸送の激増に対処し、また、老朽施設の改善と狭あい・過密打開のため、拡張整備事業(現在の市場西棟)を実施し、昭和50年 11月に果実・乾物等の部門を、昭和51年2月に漬物売場をそれぞれ移転しました。

しかし、本場開場から60年余を経て、施設の老朽化が著しく、耐震構造の施設への建替えや、生鮮食料品等にかかる流通環境の変化や多種多様な消費者ニーズ、情報化の進展への対応が求められていたことから、食品流通の基幹的役割を充分果たすことができる機能を有するとともに、環境対策や衛生面に配慮した廃棄物の処理施設等を備えた近代的な市場をめざし、平成元年度より抜本的な施設整備事業に着手しました。平成4年9月に業務管理棟が竣工し、その後引続き市場棟(現在の市場東棟)及び関連棟の工事を進め、足かけ10年に及んだ現地建替が平成14年11月に完成しました。新しい施設は重層構造で売場面積は日本最大となり、西日本の基幹市場として今も生鮮食料品流通の要としての役割を担っています。

祝開場80周年

昭和6年11月に公設の中央卸売市場で全国のモデル市場として開設された本場は、戦前、戦後の食料危機を経て高度経済成長期等激動の昭和時代の諸課題を克服しながら発展を遂げてきました。そして、平成23年11月11日、めでたく開場80周年を迎えます。

昨今、経済状況や流通機構の変化など市場を取り巻く状況には厳しいものがあり、本場においても、取扱数量・取扱高ともに漸減傾向が続いておりますが、これからも、21世紀の市民の台所にふさわしい、市民・消費者の皆様により一層信頼される市場として、西日本の中核市場としての役割を果たしてまいります。